宝台院 文化財展示室

宝物

文化財の紹介

阿弥陀如来立像(国・重要文化財)

阿弥陀如来立像(国・重要文化財)

本尊は白本尊と呼ばれ、芝増上寺の黒本尊とともに家康公の守り本尊となった阿弥陀如来立像です。

白本尊と呼ばれる由来は、金箔の下に白い胡粉が使われていたことからと言われています。

家康公の自画像(市・重要文化財)

家康公の自画像(市・重要文化財)

若き日の家康像として注目されている家康公の自画像です。

家康公が63歳くらいの頃ではないかと言われています。

真の太刀

真の太刀

家康公が父広忠公から譲られた太刀です。

慶長9年(1604)に家康公より寄進されました。

徳川家康公筆「安元御賀記手習」

徳川家康公筆「安元御賀記手習」

安元二年二月四日に行われた、後白河法皇「宝算五十の賀」の次第を藤原隆房が記した仮名日記で、この本を手本に家康公が手習したものです。

明治年間に徳川宗家より寄進されました。

徳川家光公筆「遠山月」

徳川家光公筆「遠山月」

徳川宗家より寄進されました。

西郷局(お愛の方)之墓(市・重要文化財)

西郷局(お愛の方)之墓(市・重要文化財)

西郷の局(お愛の方)は27歳で徳川家康公に仕え、翌天正7年(1579)4月、家康公の第3子・秀忠公(2代将軍)を生みました。
当時、家康公は浜松城にあって三方ヶ原の戦い、設楽原の戦い、小牧長久手の戦いと戦争に明け暮れる最も苦難な時でした。
西郷の局はこの時期に家康公と連れ添い、
苦労を共にしてきた妻といえます。
西郷の局は天正17年(1589)5月、38歳の
短い生涯を終えました。

徳川慶喜公謹慎之地

徳川慶喜公謹慎之地

最後の将軍15代徳川慶喜公が駿府で謹慎することになり、慶応4年(1868)7月23日に宝台院に入りました。
慶喜公は謹慎が解除される明治2年9月28日までの約1年間を宝台院で起居されました。

石碑には、当時の緊迫した状況が記載されています。

キリシタン灯篭

キリシタン灯篭

茶人として有名な古田織部が製作し駿府城へ奉納、徳川家康公の侍女・ジュリアおたあが信拝したという灯篭です。

この灯篭は城内より静岡奉行所を経て宝台院へ移されました。

かしく坊の墓

かしく坊の辞世

唄がうまかった風狂人の辞世の句。
宝台院の裏門で死す。

その名をかしくといい、摂津大阪生まれの人とあります。
法名は「雲水夢覚禅門」。

徳川家康公よろい下着切

徳川家康公よろい下着切

家康公が実際に鎧の下に着用していた下着です。

徳川秀忠公筆「本多正純宛書状」

徳川秀忠公筆「本多正純宛書状」

秀忠が父家康の健康を案じて送った書状です。
一般的に家康の死因はタイの天ぷらと言われていますが、この書状には腹を下したが回復したとの事実が書かれています。
つまりタイの天ぷらが直接的な死因では無かった事を示す重要な証拠と言えます。

徳川秀忠公筆「千姫宛書状」

徳川秀忠公筆「千姫宛書状」

秀忠が娘千姫(豊臣秀頼正室)に宛てた書状です。

徳川家光公筆「鶺鴒図」

徳川家光公筆「鶺鴒図」

寛永十二年、宝台院第九世大誉善徹上人の時に拝領

お愛の方 肖像画

お愛の方 肖像画

当山に眠るお愛の方(家康側室・秀忠生母)の肖像画

徳川慶喜公筆「月可玩」

徳川慶喜公筆「月可玩」

「日本歳時記」貝原好古編纂から引用した言葉

徳川家御使用蒔絵香炉

徳川家御使用蒔絵香炉

香道などで用いられた香炉

宣命

宣命

後水尾天皇より、西郷局(お愛の方)昌子に追号の従一位が下された文書

常紫衣の綸旨

常紫衣の綸旨

後水尾天皇より、宝台院代々の住職に紫の衣を被着して宮中への参内を許可した文書

女房奉書

女房奉書

天皇の意向を女房が書にして発給した文書。宝台院代々住職に紫衣の着用を許可する旨が記載されている

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